ポーランド公演
知立のからくりのはじめは、中町の祭礼帳に「承応2年」(1653)と記されているが、
具体的な記録は享保9年(1724)に知立の小かじのからくりが、鳴海のお祭に興行
[うり]に行った事から始まっている。
当時四カ町の山車で同じようなからくりが上演されていたと考えられるが、残念ながら
中町以外の三カ町には上演の記録が残っていない。
宝暦以降のからくりより盛大になってきた操り人形でさえ、三カ町にはほとんど記録が
残っていないのだからやむを得ないことでもある。
中町と同じようなからくりであったと考えられるのは、山町に残った「平治合戦」のからくり」
中町に残ったトイ、人形の胴、等も、西町の「一の谷合戦」のからくりと同じ系統のものである
からである。
幸いなことには、「一の谷合戦」の岡部六弥太の胴に、[文化元年子三月]。
熊谷小次郎の鎧の裏に和紙が張ってあり、墨書き銘に[之作、文化三年、儀平、与七、仁平、
権の助]と、又、小次郎谷渡りの岩の裏面に[文政甲申三月十日、仁、六十三]と、看板入れ
には[文政七歳甲三月吉日]とある。何れも文化文政時代の年号が墨書きされている。
そのため化政期には「一の谷合戦」も盛大に上演されていたと考えられる。
知立神社の祭の山車が四台そろったのが承応2年であり、知立のからくり人形が装いを新た
にしたのが文化・文政時代(1804〜’30)江戸時代の爛熟期である。
東海道五十三次の宿駅として繁盛していた宿場町だけでは、現在残っているような豪華な
「山車」・当時の機構の最先端を行く「からくり」・演劇の粋といわれる「文楽」はうまれなかった
だろう。時代の背景というものを深く感じるのである。
そうして出来てきた「一の谷合戦」のからくりもその後何年に上演され、どういう評価を受けて
きたかは知る由もないのである。
明治維新以後、西欧文化の吸収が優先され江戸文化は衰退の一路をたどった。
大正時代かろうじて残ったからくりは、山町の「平治合戦」と西町の「一の谷合戦」のからくり
だけで、ほとんど江戸時代そのままの姿で細々と上演奉納されていた。
それも昭和になって「一の谷合戦」だけとなった。
その「一の谷合戦」のからくりが大きくクローズアツプされてきたのは、奇しくも
昭和の元禄時代といわれた時代からである。
知立からくり保存会発行「知立のからくり」より抜粋
これまでの経過、出来事と予定
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